直心影流について
直心影流は、その祖を杉本備前守政元(神陰流)にあおぎ、二代上泉伊勢守秀綱(新陰流)、 三 代奥山孫次郎公重(神影流)、四代小笠原金左衛門長治(真新陰流)、五代神谷文左衛門真光(新 陰直心流)、六代高橋弾正左衛門重治(直心正統流)と伝承し、貞享・元禄の頃、七代山田平左衛 門光徳に至り流名を「直心影流」としました。

山田平左衛門は烏山藩主永井伊賀守の家来で、十八歳の頃、旗本富田左門の屋敷にて大瀬弥兵衛な る者と木刀で試合を して怪我をしたため、しばらく剣術の稽古を止めていましたが、三十二歳の 頃、直心正統流高橋弾正左衛門の面や小手を着用した安全な稽古を見て高橋に随身入門し、稽古を 再開しました。その後、四十六歳にして直心正統流の免許を得たと言われています。山田平左衛門 は流名を改め、新たに直心影流を称しました。

山田平左衛門の跡は、その第三子である隼太、のちの四郎左衛門国郷が継ぎました。四郎左衛門は 幼い頃より永井伊賀守の君側に仕えていましたが、八歳の頃から父について剣術を学び、二十一歳 で免許を得たと伝えられています。のちに江戸西久保(現在の東京都港区虎之門)に道場を開いて 剣術の指導にあたりました。故あって本姓に復し、長沼四郎左衛門国郷と称しました。明和四 (1767)年七月二十四日、八十歳で没しました。

山田平左衛門父子が活躍した元禄頃は、太平の世も長く続き、浮華柔弱(ふかじゅうじゃく)の風が瀰漫(びまん)していました。 こうした世相を反映して武術も形式主義に陥り、剣術もいわゆる「華法剣法」と化していました。 山田平左衛門は形稽古のみに満足することなく実子の長沼四郎左衛門と共に他流に先がけて面や胴 など剣道具の工夫や改良を進めました。

剣道具の改良については、「長沼先生之墓」に「木刀、皮竹刀を制して大いにこれを改め、鉄仮面 を制して使い毀損せず、腕を覆う綿甲を作って使い打撲なし」といった事が記されています(原文 は漢文)。つまり、皮竹刀(丸竹の柄の部分を残して先を細かく割り、皮袋をかぶせた袋竹刀)、 鐵假面(てつかめん)(鉄製の面具)を制作し、綿甲(めんこう)(籠手)で肘を覆う道具(現在の防具の原形)を改良作成し また現代の竹刀とほぼ同じ四つ割竹の竹刀を用いた、より実践的な打込み稽古を始め、若者の心を 捉え多くの門人を育成して各地に伝播し、幕末にかけて大いに発展しました。
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江戸時代の剣道具
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長沼国郷自筆の免状
振武会(しんぶかい)について
振武会は長沼正兵衛忠郷(しょうべえたださと)の高弟黒岡矢柄(やから)安重(代々奥州三春藩秋田家の剣術師範役を務める)の子 孫が明治時代に入り組織した直心影流の稽古所で、そこから名付けたものです。

黒岡矢柄は安永5(1776)年、長沼正兵衛に入門しました。2年後の安永7(1778)年、目録を相伝され、天明元(1781)年には免許を授かりました。翌2(1782)年、29歳で麹町甲斐坂(現千代田区平河町1丁目の貝坂)に道場を開きました。また浜町山伏井戸(現中央区日本橋浜町)に道場を開いていた師長沼正兵衛の甥長沼政次郎の後見役となります。 寛政9(1797)年、44歳で直心影流最高位の命剣を伝授され、寛政11(1799)年8月に三春に帰国しました。47歳でした。

振武会では武家文化の遺産ともいえる直心影流を伝統に沿って忠実に継承し、指導を行っていま す。入門に際しては起請文(きしょうもん)(現在の入門申込書にあたる誓約書)に署名・血判を押して入会してい ただいています。入門後は形稽古から始まり、一定の段階に至ると面や小手などの剣道具を着用し て竹刀稽古も行います。また、伝書に記されている教義についても教えていきます。習得段階に応 じて霊剣から免状まで、許状を授与し、伝統文化の継承につとめています。
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黒岡政記の振武会石碑